hommage à technologie 技術へのオマージュ

テクノロジーに裏打ちされる物
それらはありとあらゆる道具として存在する。
いまさらそれを否定したところで何も変わらないし
それには戯れ言の価値もない。

さんざん享受して
その自分の行為を棚に上げて作る側に責任を求めるのは
正直に言ってむかむかしてくる。

http://nvc.nikkeibp.co.jp/free/COLUMN/20061218/107597/

“たとえば、朝起きたら窓を開けるのは、私は常識だと思っていた。
あるいは一日家を空けたら、いったん窓を開けて空気を入れ替えるのも、
常識だと思っていた。洗面所でいえば、風呂上がりに湿気と熱がこもっていたら、
風呂場のタイルに水をかけたり、ドアをしばらく開け放しておいて、
空気を冷やし、入れ替えるものだと思っていた。でも、そういう常識は、
いまやなくなっているらしい。”

著者の家に冷房はついていないくて夏場使っていないのなら認めよう。
でも間違いなく使っているだろう。

この人が言っていることは

“家の前の道を打ち水して空気を冷やすのが常識だと思っていた
そういう常識はいまやなくなっているらしい。”

と家の祖母が言っていることと全く同じだ。
常識が常に移り変わっている事すらわかっていない。
頭がコチコチだ。

“けっきょくは、商品を買う人の力をどんどん失っていくことになると思うのだが、
そこまで企業に考えろ、というのは無理なのだろうか。”

電気も水道も無いところで生活してみろとまでは言わない。

車にも電車にも飛行機にも乗らず
あらゆる家電を使わず生活してみろくらいは言いたくなる。
でも絶対に使っているだろう。
そういう人にこういうことを言われたくない。

“もう一度書くけれど、では、そういうことはいったい誰が考えるのだろうか。”

ふざけるな。
自分で考えろ。自分で取捨選択しろ。
深夜のテレビショッピングで理想の体を手に入れられる器具でも買ってろ。

既に、様々な力は失われている。
力を失う方向に、楽しようとするのが人間だ。

売れなければ商品は淘汰される。
売れると言うことはそこに要素があるからだ。

参考
http://japanese.engadget.com/2007/03/22/semiauto-banana-peeler/